2011-03-30

森村泰昌さんの展示「なにものかへのレクイエム」をみた

さいきん藤井直敬さんの『ソーシャルブレインズ入門』という本
畑村洋太郎さんの失敗学
森村泰昌さんの展示「なにものかへのレクイエム」
にふれ、考えるところがあったのでメモを記します。

森村泰昌の作品は簡単に言うと、作家自身が歴史上の人物や事件の登場人物そっくりの姿になって写真に写っているものです。
①
「他人の歯の痛みはわからないか?」というウィトゲンシュタインふうの問がありますが、
これはミラーニューロンという神経科学の成果からすると、結局はわかるんじゃないのか?と考えていました。
(藤井本ではミラーニューロンは実験のやり方、ミラーニューロンをブラックボックス化しすぎている点など問題あるということもしりましたが)

その人物になりきってみるということは、単に服をきてメイクしてという範囲を超えて、
神経科学的に言っても、まさにその人の感じていることを追体験することに他ならないような気がしてきました。
そして森村の作品は「重要な歴史の転換点にたった人物の感情を追体験している様」をわれわれに見せている作品なのだなと解釈しました。
その追体験をもって、現代に何かを示す、これが展示名の「レクイエム」なのかなと。

②
さらに藤井本には、「スタンフォード監獄実験」という心理学の実験についての記述があります。

「フツーの一般市民を連れてきて、「刑務所の監視員役」「囚人役」に分ける。
そして実際に刑務所に入ってもらい、「囚人」は牢の中に、「監視員」はそれを監視する。
すると、数日の間に、「監視員」は「囚人」に対し、「ごっこ」で獲得しただけの権威をかさに着て、
侮蔑的な言葉をあびせたり、暴力を振るったりするようになった。囚人はそれを甘んじて受け入れてしまうようになった。
これはただの「ごっこ」であり、始める前にはお互いに何の上下関係もなかったのに、である。
あまりにも危険な状況になり、この実験は6日間で中止された」

これを藤井は、「権威がいかに私たちの客観的な判断を麻痺させ、倫理観を阻害するか」
ということを示す例としています。

森村はときに一枚の写真の中で、権威の乱用者/被乱用者という、対照的な立ち位置の人物のどちらにも変身しています。
たとえば「米兵」と「ベトナム市民」、「マッカーサー」と「天皇」、「暗殺された社会党委員長」と「暗殺した右翼活動家」など。
ここで彼は、被験者が「監視員」「囚人」にほんとうになってしまったように、一人の人間が本質的にはどちらの側にも振れてしまう性質を持っている、
てことを示したいのかな、ということが監獄実験とあいまって非常に感じられました。頭の隅には、こんかいの地震のことがあります。

③
「三島由紀夫の最終演説」「釜ヶ崎(西成)で演説するレーニン」「「ヒトラーのチャップリン」に扮する森村」…
あのときあのひとが問題提起したことは、いまでも意味がある。よくそういう事が言われますが、
それを直接言うのじゃなく、ちょっと考えさせるように、しかもあほみたいパロディにしてくるから引きこまれてしまいます。
 
それから展示があった兵庫県立美術館。とてもいい建物でした。
安藤忠雄が阪神大震災からの復興への思いを込めた美術館と聞きました。ものすごい偶然です。
いろんな歴史が多重的なレクイエムになって私の前にあるような気がして、かなり神妙な気持ちで展示を見ました。 

歴史は繰り返す。だから、歴史上の出来事から、学ぶことが凄いある。
ことばにすると月並みすぎますが、このようなことを感じました。

以上です 

2011-03-06

わかんないことをメモしました。品質工学てなんのためにあるの?

品質工学てのがあるとおもうのですが、それについて私の感じたことを書くので、もし、詳しく知っている方がいたら、なんかのコメントをいただけないかなーーと思っています。

【品質工学、ロバスト設計についてのだいたいの考え】
製品開発するのに、いままでの延長線上にあるような開発なら、いままでの経験に基づく「直観」で検討内容を最初から決め打ちし、ほかは無視してすすんでも、まあOKということにします。

いっぽう、いままでやったことのない内容、を製品に載せないといけないというような場合、いままでの経験が通用しないです。

その場合以下のような方法で対応することが考えられます。
①直観でやる
②パラメータひとつ、ふたつでやる
③全部のパラメータためす

①は今までやったことないのではずれるでしょう。②はひとつめのパラメータに関してOKだけど、ほかの要素が合わなくなり、ふたつめのが合うようにしたら、こんどは3つめの要素がおかしくなり…というあっちを立てればこっちがたたない状況になるでしょう。③は、気合いだーと全とおりをためしているうちに、ライバルに先をこされます。

てことで、ロバスト設計の中のひとつである直交表とかをもちいた実験計画法てのが必要となってきます。③でやろうとしたら128通りの実験しないといけないところ、7通りで網羅することができる、みたいな手法です。

てわけで、品質工学てのは「先の見えない新しいこと・やったことのないことに取り組むときに使うもの」で「素早く確実さをつくりこむ」ためのツールなのかなーと感じています。そうして経験が得られたら、その内容は、つぎからは直観でできる範囲に落ちていくという感じです。

【『仮説思考』て本にかいてあったことが同じようなことでした】

内田和成というひとの『仮説思考』という本をよんでみました。内容は「さいしょに網羅的思考をしきってから行動するのではなく、仮説にもとづいた大きなストーリを立てて、必要最小限の検証で、うごいたほうがいろいろいいですよ」といったものでした。

てわけで、なんかつながりがあるようなきがしました。

【疑問:あらためて品質工学の目的は?】
繰り返しになりますが、いままでの延長線上なら経験に基づく直観でOKなので、そうじゃない新しいことにとりくんで素早くやんないといけないときにはじめて品質工学がひつようなのかなーと理解しているのですが、そもそもこの考えは、どうなんでしょうか?
なんか、教えてください。

以上です