2015-07-21

2015/07/20 横浜

2015/07/20 横浜 
蔡國強 展
透明の壁に、狼99匹が、ぶつかりにいっている作品
透明の壁 物理的に壁なくなったが、まだ見えない隔たりが存在してること
99 完結を知らずに先頭を進む 連続性
狼 共同体意識 英雄的精神 勇気

2015-03-01

Japan architechts1945-2010 という展示 3.11以後の建築 という展示の感想

今日、金沢21C美術館に観光にいきました。Japan architechts1945-2010という展示と、同時にやっていた3.11以後の建築という展示を見にいきました。
かなり戦後の建築歴史勉強になり、かつ自分が建築に対して感じる熱さはどこにあるのかを再確認する旅になりました。
以後かなり偏った意見。
結論は、「3.11以後の建築」は、すべてかつて私が好きな石山修武が提示したことの、トレースであり、石山さんが、いかに先見性あったかが分かった(言い換えれば、生まれる時代、30年早すぎた。いま40代だったら超ヒーロー。)ということだ。
例えば3.11以後の建築」の章立ては、
1みんなの家
2災害後に活動する
3エネルギーを考える
4使い手とつくる
5地域資源を見直す
6住まいをひらく
7建築家の役割を広げる
だが、これを石山修武キーワードに置き換えると、
1=石山自邸=世田谷村
2=唐桑、上九一色村
3=世田谷村、開放系技術論
4=施主とその息子さんに一部家を作らせるセルフビルド、もっとハードコアなのは石山さんと施主が2人きりで一から家をつくる「開拓者の家」…展示では高山建築学校にも行きビルをセルフビルドする岡氏のことがあったが、この学校の中心人物のひとりが石山氏。
5=三分一博志より、石山。世田谷村屋上
6=自宅がワークプレイス兼もろもろ=世田谷村
7=世田谷村=コミュニティデザイン〕。唐桑=地域の祭りを主催。秋葉原感覚で住宅=セルフビルドと関連した北米からの資材輸入業。小商い=著書参照。

また、成果になんなくてもワークインプログレスを見せることで、魅せて行く姿勢。これも近年、デザイン・建築でおおいけど=ウェブサイトにプロジェクトごとにページ作ったり、経過をみせるブログをしたり(世田谷村日記は、ブログ登場はるか以前からあり)
今回見た中で一番気になったのは坂茂さんだが、これは災害地支援=石山のにおい(例えばプノンペンへのポルポト派に破壊された寺のボランティアによる再建プロジェクト。あとは種々の人情系プロジェクト)を感じたからだが、
石山氏はデザイン力の不足(建物そのものはそんなくそかっこいい!とは言えない)と、様々な技術などを統合して良いアウトプットに持って行く作戦を立てる人物という本来のアーキテクトという言葉の意味に立ち返ると、シャイすぎたり、方々にちょうど良い感じに広報する力の弱さだったりが、同じような方向なのにもかかわらず、坂氏と評価大幅に分かれるてんなのであり…最終プリツカー賞を取るかいなかまで、分岐する。

黒川紀章=考え方、すごすぎ
安藤忠雄=インテグリティありすぎ
磯崎新=石山さんは舎弟
鈴木博之、難波和彦あたり、…ライバル
ってことで、社会が大きく進歩してくなかでの中で巨大建築、社会全体のメインストリームトレンドもフォローしつつ、科学技術への疑いもあるヒッピー世代、バックミンスターフラー、ホールアースカタログ的な何かを心に持つがゆえの反抗心もあり。というなかで、すごいいろんなポテンシャルが、あるんだけど…。

とにかく図録と、万茂の本も買い込み。読み込もうと思います。

金沢、ご飯(魚、お酒、おでん、などなど美味しいし、北欧的な良い家具の店もあるし、鈴木大拙館は、マジよかった。、、、なんかいも来てはいるのだが次は一泊できたい。粋な店で宴会をしながら様々に語り合いたい。

良い旅でした。
以上です。

2015-01-19

堀川すなお 解釈と行為 seeing and practicingを見に行った


  • 堀川すなお 「解釈と行為」 江之子島文化芸術創造センター を見に行った
  • 堀川さんは、バナナやライターを注視して、見える図像を絵に落としこむ作業をしていた
  • 結果として、我々が通常イメージするバナナとはかなり異なる異形な絵ができる
  • 展示では、最初↑のしかたで絵をかいていた堀川さんが、最終的に、人から聞いたバナナを解説した文字情報だけをもとに絵を書くことと、自分があるバナナをみてまずそれを文字に落とし込み、次はバナナをみずに文字だけをみて、図像に落としこむという手法に変わってきたことが、順をおって説明されていた
  • ここで思ったのは、「バナナを記述した文章をもとに、それだけをもとに絵をかくといっても、もともと頭の中にあるバナナのイメージを、完全にわすれて、本当に文字情報だけに基づいて絵をかけるのかどうか」
  • でもある程度は、文字で書いてあることに忠実に、書こうとしたらかけるのではないかと思った
  • あと、別にバナナのイメージが頭に有ってしまっても、特にそれを誰かに禁じられているわけではないのだから、実際にできていなくてもなんの問題もない
  • バナナを文字に落としんだとして、それをもとに絵をかいたら、元通り写真のようなバナナの絵ができると思いきや、異形なものになってしまうという一連のプロセスを見せることで、
  • 君は、目の前のものを理解して(文字に落としこんで)いるはずだけれど、実際、この絵になるような仕方で理解できていないのでは?
  • また、理解したものを文字で表現するとはどういうことか?文字にした時に削ぎ落とされてしまうものはなにか?などに思いを馳せることになる。
  • あと、いつもあるけど、あなたとわたしのバナナのイメージがちがうことを、文字&絵で表すことができると思うが、それは違っても、別に会話できるから問題ない(むかしから思っているとおり、言語の意味は社会的に形成される(言葉の意味は頭のなかに描いているイメージ図ではない。もしくはコミュニケーションで相手に伝える言葉の意味はそれを用いるときに頭のなかに描くイメージとは切り離せる)ので、だいたいおんなじ文化で過ごしていたら、コミュニケーションとる文脈のなかで、バナナをお互いが大きく取り違えたまま、すすむことは、ほぼない。もしあったとしても、それはやりとりの中で、ちょっとずれてるな、とか相手はこういう意味で用いているな、とかいう微修正がかかっていく。大きくずれたまま進んだ場合、どこかで会話のつじつまがあわなくなり、お互いにどういう意味で言ってますか?という大きな修正が入ることになる。
  • 今この人とは、バナナをこういうくくりで用いよう、という、お互いのぼんやり理解のなかで、微修正しつつコミュニケーションが流れていく状態をデイビドソンは「当座の理論」の構築と呼んだ、と私は理解しているが、英語を喋れないどうし、米国人と英語しゃべれない日本人が英語で話すとき、日本人同士で日本語で話すとき、、、と程度の差はあれども同じことをやっているはず。
  • デイビドソンの極論は、○○語は存在しなく、常にコミュニケーションをとる同士の「当座の理論」があるだけというものだが、
  • 日本語といわれている言語の境界線はどこで引けるか?ということに思いを馳せると、デイビドソン論もそこまで突飛ではないのかもしれない、と思っている。
  • 堀川さんが、自分で対象を見つづけて描くと、限界がくる。(どこまでやればいいのかわからない。終わりが来ない。これ以上、面白いものはでてこないかもしれないけど、出てくるかもしれないから、終わりがきまんない)が、他人が対象を文字で記述したもの、自分が対象を文字で記述したものをもとに描くと、(たぶん手順書にもとづいて図面を描くような形で、明確に終わりがある)から、描ける。といっていたのが興味深かった
  • つまり、堀川さんが、「自分が絵を描くための手法」を明確に定めて、その手法に基づくとこういうことができるはず、の仮説からものを生み出してみて、OKなら進む、だめならまた考えなおし、みたいな仮説検証を行っていること
  • あと、打ち上げに参加し、堀川さんの師匠の法貴さんが、モノ自体のもつ力、と説明する文章自体の凄さの件、言っていたが、
  • どちらも確度・精度・練度がすごかったら与える力は同程度のものになる。手段が違うだけで、目的はおなじだから…という理解をした
  • ものをつくっていて、評価の土俵にのってもの作ることができることも大切だが、それだけではつまんなくて、でも明らかにカウンター的な意思表明も、相手の土俵をいしきしちゃってて結局おもしろくない。やりたいのは、自分がこれだと思うものをただ作って、なんかすごいから今までの評価軸にないかもしんないけど評価されるような状態。
  • なかなか、ふつうではそう思えない。性格か、意志の力がないと。
  • http://www.enokojima-art.jp/event/20150110_horikawa/
  • https://www.evernote.com/shard/s17/sh/1e9cd386-2fc5-408b-8690-60f6cdc2c850/a74fe1ea03a5299626b13c3334f1ef06