2011-09-18

佐藤郁哉『フィールドワーク』を読んでおもしろかった

ふだん「組織変え」的仕事をしており、現象をどう見たらいいのかという点で悩むことが多いです。

問題のありかを洗い出すためにインタビューという方法を用いることもありますが、その「非効率的さ」にまじで疲れることもしばしばです。これは、もっと効率的な定量的調査(行動科学的な?)で置き換えることができるんじゃないかとか、この定性的成果物をあつめたからどうしたというのか?といった疑問をもちながら行動していることもあります。

佐藤郁哉『フィールドワーク』を読み、エスノグラフィーという態度(私の中で乱暴に定量的=サーベイ、定性的=エスノグラフィーと整理)が、じつはかなりそういった疑問に対するヒントになっているということを知りました。

とりあえず、生きている人間と文化の姿をリアルに再現するにあたって、非効率であることはエスノグラフィー的には基本なんであきらめろ、というのは深く理解できました。これからは意味を理解して行動できそうです。

「仮説」に対する態度がかなり深かったです。仮説と聞くと、私はつい①実証主義(ポパー)の矛盾点、論理実証主義の矛盾点とか、つい科学哲学の出口なき議論に入っていこうとしたり、②仮説検証的アプローチとエスノグラフィー的アプローチというのをなんとなく、対比的に見ており、その現場に仮説をもたない裸の自分で入っていく、そして得たものを、ありのままに書き残していくのがエスノグラフィーであり、その表現はいきおい文学的とならざるを得ず、なんていうか、今福龍太みたいな「飛んだ」文章になるのだ…と考えたりしてしまいます。そのため、エンジニア出身の方々がさっくり「仮説!検証!」と言っているのを耳にすると、本当にそうなのか…と。

しかし、「仮説」というものを佐藤が言うように“経験的な事象を科学的に説明もしくは予測するために定式化された未検証の命題”というのよりも柔らかく、“既にある程度分かっていることを土台(根拠)にして、まだよくわかっていないことについて実際に調べてみて明らかにするための見通し”と考えてみたら、まあ普段から、そいうことはしているのであり、佐藤氏がフィールドワークにもじっさいは仮説検証的アプローチが含まれていると述べるのは矛盾ではないと納得しました。一般的にサーベイ的なものですら「明確に打ち立てた仮説を数回の実験ではっきり白黒つけて検証する」というプロセスがふまれてるとは限らないし、複雑な事象が絡んでいるフィールドにおいてはなお、まえに読んだマーケティングの神話の感想のごとく、「何回もやれ」という姿勢が大切になるというのは、すごく納得です。

観察者の技量が重要というのも響きました。インタビューして、聞いたことをありのままに書いてい(るように見せ)ながら、それが調査の見通しに対して重みを持った発言となるのかは、フィールドワーカー自身の「物語り」がきちんと成功しているかにかかっているとのこと。その物語りでは、きっと調査対象のある発言・行為が埋めこまれている文脈全体が示され、そのもとにその発言の意味を論じられているイメージだろう。

そういえば大学の時、心理学の学生がよく概論の授業の後に来て、全員対象のアンケートを配っていました。文化人類学のともだちは、東北の牛飼いのところに住みこんで調査、いまはタンザニアの遊牧民のところにいます。学生の時、なんとなく触れ合っていたこうした学問が、今になって大いに意味あるというか、なんか全員でどうやったらいいのかねーと言ってとりあえずワンショット・サーベイやってみたけどで結局あんま役に立たないみたいなモヤモヤを繰り返さないためにも、こういう視座を共有して進めていくことが大切だと他の人を説得できそうな気になれたのは収穫です。

じつは自分たちが手前味噌でやってきた手法のなかにも光る物がある(たとえばフィールドノーツ)ということが佐藤氏の説明で理解できたので、これも良かったです。

『組織と経営について知るための実践フィールドワーク入門 』というような本も出されているとのことで、きっと企業変革コンサルタント的な仕事をしている人は上で言ってるようなことに既に気づいており、したがってこんな本が欲されるのでしょうね。ぼくはでも、『暴走族のエスノグラフィー』が読みたいです。調査対象は京都の元ヤンで、これは読むしかないです。

なにより、未知の現象に挑んでいくwktk感を喚起してくれるという意味で、「沢木耕太郎」「石川直樹」「今福龍太」…そこに「佐藤郁哉」も加わったのが、うれしいです。

以上です

2011-08-20

千宗屋『茶 利久と今をつなぐ』をよんだ

武者小路千家家元の千宋屋の『茶 利休と今をつなぐ』
て本を読みました。現代美術も詳しい氏ですが平易な語り口でお茶とは?を解説してくれており、非常に面白かったです。

一番ぐっときた点:
氏の黄金の茶室はいいと思うという考え; 利休いうところの詫びとは、仏の御心に対して身分相応のやりかたで、いまできる全力の仕方で敬意を表するが、それをどんなに極めてもどうしても物理的に限りあることへの「すいません」という気持ちの事であるらしい。てことは貧乏ならびんぼうなりの、金持ちならかねもちなりの敬意の表しかたと、詫びがある。
じっさい、質素スタイルで一時代を築いた利久の孫の宗旦は、ある大名がわざわざ質素な食事を用いた茶会を催したとき、必要以上にやつして見せれば詫びだとかんがえるのは、分かってないです。と批判したという。
それで黄金の茶室に立ち返ると、これは天下人の秀吉がスーパー全力をつくした、彼なりの詫びの表現だと分かる。
さらに古代に目を向ければ、仏の力に光をあたえるため、経典を金文字で書いたり、仏像を金にしたり、その周囲を様々な装飾するのは普通にやられてきたことです。それは、単に権力誇示ではなく、仏の御心のすごさを具象化するための行為であり、信仰の深さを示すための行為であったわけで、そう考えると、黄金の茶室=俗悪とは全く言えないのです。


禅的なやつと琳派的なきらびやかなやつ、どちらも日本にはあるわけで…。とか、ぜんぶ金の部屋ってそのハードコアなミニマル感が逆にすごくねー?という思いから、黄金の茶室が好きな私にとってはかなりぐっときました。

おすすめの本です。

以下はメモです。
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お茶の歴史
渡来人とか、空海の時代に始めてお茶とふれあった。
栄西が佐賀にお茶を伝え、さらに宇治とか醍醐とかにお茶栽培する場所ができた(寺は密教系に伝えられた)
鎌倉時代には、闘茶というテイスティングと賭博を一緒にしたものが武士の間でたいへん流行した。
その頃中国はモンゴル人に支配され、漢族の僧が日本に避難してきた。そのせいで彼らのお茶飲む習慣も一緒に伝来した。
それは、彼らのお宝(唐物)で部屋を飾ってお茶飲むスタイル。それがかっこいいとされた。
室町になるとそのスタイに歴代将軍が金突っ込んだ。お宝を飾る為に書院造り(床の間、違い棚とか)が生まれた。
応仁の乱で京都は灰燼に帰し、そっからうまれた厭世観や、あるもんでやるしかないという流れで、国産の道具、狭い茶室ていうミニマリズム的流れが生まれてきた。
それの萌芽が、足利義政のどうじんさい。
京都が荒れてた頃、堺が力つけて茶も担った。その中に商人かつ僧籍もつ千利休もいた。ここで初めてお茶と禅宗が結びつく。
プライベートなビジネス社交クラブとしてお茶を使う方向性。
その後織田信長が上洛し、お茶をやる権利を許可制にする。成り上がりで文化的なものが薄い武士が、文化的な部分をとりこもうとした。武士はすべからくお茶をやるものであり、その許可をくだし統括するのは俺、信長。
かつ鉄砲の供給源である堺とのパイプもつなげたかった。
茶事を行う茶頭として利休など
三人を迎えた。利久の美的価値観が、国家によって担保されている状態。器が国ひとつと同じ価値をもつ。
唐物ではなく、漁師の魚いれるびくを道具にしてしまうという価値の転換(デュシャン的な)。
唐物を見ながらお茶をのむ会、ていどのものを、ミニマルかつディープコミュニケーションの手段としてのお茶、お茶を変化させた。そのため茶道具、飾られるものも、抽象性が高くなった。
その後、利休が切腹させられたのち再興を許されたとき、千家は自らを3つ(表、裏、武者小路)にわけた。これはリスクヘッジのため。しかし将来的なブランド価値の低下も防ぐため、3つより増やすことも同時に禁止した。
明治期になると、大名という数寄者パトロンいなくなった。生き残りのため、裏千家はお茶教室体系を全国に張り巡らす方針転換。お茶が女性が身につけるべき作法であるというマスマーケティングに成功。
一方、三井、野村、原三渓など明治の大富豪があらたな数寄者としてお茶をバックアップ。

茶碗を回すのは、相手が見せてくれた茶碗のベスポジに口を当てるのを避けるためと言われるがそれは近代以降にできた話しで、それ以前に実利的な理由があった(角度的にすすいだお湯を捨てるだけで飲み口が現れ、水か少なくてすむ)。つまり、もてなされがわの心遣い。

お茶の作法の動きを合理性だけでは説明できないがしかし、型には意味がある。ジャズのスタンダードに深い意味があるのとおなじで。文化的(従順と逸脱に意味がうまれる)な意味で、また型に従う事によって精神的に深くなる意味もある。

2011-06-01

地中美術館を再訪して感じたこと

 先日、香川県の瀬戸内海直島にある地中美術館、ベネッセハウスミュージアムを6年ぶりに再訪しました。そのあいだ、振り返ってみればけっこういろいろ展示を見て回りました。大学で授業などにもでました。それが私の人生にそれまでなかった知的刺激をあたえてくれ、あたえつづけてくれています。
 とりわけ思ったのは、ウォルター・デ・マリアの巨大な岩球が設置されている部屋を鑑賞している時の、「あのときは何も感じてなかったけどいまはいろいろ感じるところがある」という感覚でした。
 アートは最高です。
 以上

2011-05-17

三菱ケミカルのプラットフォーム戦略について 論文をよんだ

モノづくり経営研究科の製品アーキテクチャに関する論文のうち、あまり読んでいなかった部分を再読しました。

インテルやアップルが有名ですが、日本の企業はないのかなと思い探していました。
「三菱ケミカル」の部分が読みたくて、15ページから再読しました。
以前ブログで知財戦略・プラットフォーム戦略のことを紹介したのですが、それと同じ系統のものです。
http://merc.e.u-tokyo.ac.jp/mmrc/dp/pdf/MMRC205_2008.pdf

自社がもっているモノでこれがどうやったら実現できるかと考えることも仕事に関係しているから楽しいです。
すごい大きなケーススタディというか宿題というか、やってる気分です。
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知財で固められた、すり合わせ技術の塊であるブラックボックスを確立(「記録材料である色素に関する技術」と「成形に関する技術」)。
これは、後工程の基盤成形機ベンダ・色素や保護膜コーティングの設備ベンダ、検査装置ベンダ…が必ず使わなければいけない。
値段が高く設定されていても、買わないと絶対生産できない。

後工程の設備系は技術がオープンになっている。そのため柔軟な税制度設計で参入を容易にした新興国(台湾)がほとんどのシェアを押さえてしまっている状況。
パソコンと全く同じ状況で、どんどんトータルのコストは下がる。それについていけない会社は残れない。
しかし、「いい所」を押さえている三菱ケミカルは、生産が拡大すればするほど、高い利益率を保ったままを売ることができる。
設備が技術のオープン化でコスト下がりまくって大量生産が進みまくっても、全く関係なく、むしろそのおかげで、寝ていても金が儲かる仕組み。

筆者が強調する、「知財を国際規格の中にどのように滑りこませるか、その決断と実行をする領域は、イチ技術者の領域じゃない。それこそが、経営の領域なのだ」
てのが、まじそのとおりだと思います。フツーに「技術を高める」とか、「投資する」とか、そういうフツーの思考の延長線上からは出てこない動き。
「飛び」って言えばいいか、それを見たとき、経営にアート性を感じます。


以上です

2011-04-08

ゲーム理論の本『戦略的思考の技術』をよんで仕事とかんけいづけた(短い)


フォントくずれてたらすいません

『戦略的思考の技術』という経済学のゲーム理論をやさしく解説した本を読みましたが、
そこで筆者の梶井さんは、戦略的環境を「他のさまざまな人の行動と思惑がお互いの利害を決める環境」と定義していました。

その上で、ナッシュ均衡のことを説明する箇所で、
「自分の行動に対して相手は最善の策を講じてくると予想し、さらにそれに対して自分も最善をつくすことを考えよう」
という主旨のことを述べています。

言ってみれば当たり前ですが、日々、組織とそれを構成する人をどう変革するかという仕事に従事していると、
その難しさがまじ身にしみます。

そんななか「インタビューするとき」という話題で、上司からこんな話がありました。

俺はマジでこうしようとしてて、だからお前の話聴かしてくれよ!という態度。
こちらも本気の態度で、あえて刺さりにいくようなことを言わなければ、わるいけど向こうからも本音を引き出すことができないですよ。
(その「政治力を」、「明確にスキルとして身につけたい」と思った)

そんな刺さりができたとしても、一度では、相手が言っていることの半分は本音ではなく建前だろう。
模範解答言おうとしてしまうだろう向こうも。そんなとき、「半分は本音とは思えないな」と、仮面をかぶってさらにグサリといけるか?
相手が言葉に詰まったら、他の人に「お前はどうおもう?」と聞いたりし、周り巻き込んで何らか意見を言える雰囲気を作れるか?
(コンサルタントと何人かつきあったが、岡目八目的にそれができるのが彼らの強み)

つまり「こんな聞き方したら、相手はどうおもうかの想定のもと、あらゆる手段で相手から本音を引き出せること」
これができなければスタッフではない。

ちなみにその上司の話し方は非常に説得力がある。それは威厳から生じるものなのかなー。
私としては「熱をもつこと」「言葉を正確に扱うこと」を身につけたいです。

2011-03-30

森村泰昌さんの展示「なにものかへのレクイエム」をみた

さいきん藤井直敬さんの『ソーシャルブレインズ入門』という本
畑村洋太郎さんの失敗学
森村泰昌さんの展示「なにものかへのレクイエム」
にふれ、考えるところがあったのでメモを記します。

森村泰昌の作品は簡単に言うと、作家自身が歴史上の人物や事件の登場人物そっくりの姿になって写真に写っているものです。
①
「他人の歯の痛みはわからないか?」というウィトゲンシュタインふうの問がありますが、
これはミラーニューロンという神経科学の成果からすると、結局はわかるんじゃないのか?と考えていました。
(藤井本ではミラーニューロンは実験のやり方、ミラーニューロンをブラックボックス化しすぎている点など問題あるということもしりましたが)

その人物になりきってみるということは、単に服をきてメイクしてという範囲を超えて、
神経科学的に言っても、まさにその人の感じていることを追体験することに他ならないような気がしてきました。
そして森村の作品は「重要な歴史の転換点にたった人物の感情を追体験している様」をわれわれに見せている作品なのだなと解釈しました。
その追体験をもって、現代に何かを示す、これが展示名の「レクイエム」なのかなと。

②
さらに藤井本には、「スタンフォード監獄実験」という心理学の実験についての記述があります。

「フツーの一般市民を連れてきて、「刑務所の監視員役」「囚人役」に分ける。
そして実際に刑務所に入ってもらい、「囚人」は牢の中に、「監視員」はそれを監視する。
すると、数日の間に、「監視員」は「囚人」に対し、「ごっこ」で獲得しただけの権威をかさに着て、
侮蔑的な言葉をあびせたり、暴力を振るったりするようになった。囚人はそれを甘んじて受け入れてしまうようになった。
これはただの「ごっこ」であり、始める前にはお互いに何の上下関係もなかったのに、である。
あまりにも危険な状況になり、この実験は6日間で中止された」

これを藤井は、「権威がいかに私たちの客観的な判断を麻痺させ、倫理観を阻害するか」
ということを示す例としています。

森村はときに一枚の写真の中で、権威の乱用者/被乱用者という、対照的な立ち位置の人物のどちらにも変身しています。
たとえば「米兵」と「ベトナム市民」、「マッカーサー」と「天皇」、「暗殺された社会党委員長」と「暗殺した右翼活動家」など。
ここで彼は、被験者が「監視員」「囚人」にほんとうになってしまったように、一人の人間が本質的にはどちらの側にも振れてしまう性質を持っている、
てことを示したいのかな、ということが監獄実験とあいまって非常に感じられました。頭の隅には、こんかいの地震のことがあります。

③
「三島由紀夫の最終演説」「釜ヶ崎(西成)で演説するレーニン」「「ヒトラーのチャップリン」に扮する森村」…
あのときあのひとが問題提起したことは、いまでも意味がある。よくそういう事が言われますが、
それを直接言うのじゃなく、ちょっと考えさせるように、しかもあほみたいパロディにしてくるから引きこまれてしまいます。
 
それから展示があった兵庫県立美術館。とてもいい建物でした。
安藤忠雄が阪神大震災からの復興への思いを込めた美術館と聞きました。ものすごい偶然です。
いろんな歴史が多重的なレクイエムになって私の前にあるような気がして、かなり神妙な気持ちで展示を見ました。 

歴史は繰り返す。だから、歴史上の出来事から、学ぶことが凄いある。
ことばにすると月並みすぎますが、このようなことを感じました。

以上です 

2011-03-06

わかんないことをメモしました。品質工学てなんのためにあるの?

品質工学てのがあるとおもうのですが、それについて私の感じたことを書くので、もし、詳しく知っている方がいたら、なんかのコメントをいただけないかなーーと思っています。

【品質工学、ロバスト設計についてのだいたいの考え】
製品開発するのに、いままでの延長線上にあるような開発なら、いままでの経験に基づく「直観」で検討内容を最初から決め打ちし、ほかは無視してすすんでも、まあOKということにします。

いっぽう、いままでやったことのない内容、を製品に載せないといけないというような場合、いままでの経験が通用しないです。

その場合以下のような方法で対応することが考えられます。
①直観でやる
②パラメータひとつ、ふたつでやる
③全部のパラメータためす

①は今までやったことないのではずれるでしょう。②はひとつめのパラメータに関してOKだけど、ほかの要素が合わなくなり、ふたつめのが合うようにしたら、こんどは3つめの要素がおかしくなり…というあっちを立てればこっちがたたない状況になるでしょう。③は、気合いだーと全とおりをためしているうちに、ライバルに先をこされます。

てことで、ロバスト設計の中のひとつである直交表とかをもちいた実験計画法てのが必要となってきます。③でやろうとしたら128通りの実験しないといけないところ、7通りで網羅することができる、みたいな手法です。

てわけで、品質工学てのは「先の見えない新しいこと・やったことのないことに取り組むときに使うもの」で「素早く確実さをつくりこむ」ためのツールなのかなーと感じています。そうして経験が得られたら、その内容は、つぎからは直観でできる範囲に落ちていくという感じです。

【『仮説思考』て本にかいてあったことが同じようなことでした】

内田和成というひとの『仮説思考』という本をよんでみました。内容は「さいしょに網羅的思考をしきってから行動するのではなく、仮説にもとづいた大きなストーリを立てて、必要最小限の検証で、うごいたほうがいろいろいいですよ」といったものでした。

てわけで、なんかつながりがあるようなきがしました。

【疑問:あらためて品質工学の目的は?】
繰り返しになりますが、いままでの延長線上なら経験に基づく直観でOKなので、そうじゃない新しいことにとりくんで素早くやんないといけないときにはじめて品質工学がひつようなのかなーと理解しているのですが、そもそもこの考えは、どうなんでしょうか?
なんか、教えてください。

以上です

2011-02-24

三品和広先生のレクチャーをききにいってすごかった

三品和弘教授(神戸大学経営学部)のレクチャーを聞けるチャンスを得たので、聴きに行きました。どうしてもお話を直接聞いてみたかったのですが、やはり、強い印象が残りました。以下、文が崩れていますが勢いでメモを記します。

まず前提として、三品の言う「戦略の重層構造」を説明する。
戦略の重層構造とは
Ⅳ日常のマネジメント:〇〇管理と名のつくもの全て。
Ⅲ戦略的意思決定:製品レベル:今年、来年…のロードマップ
Ⅱ事業デザイン:事業レベル::開発・生産・販売…のやりかたにかんする決定
Ⅰ事業立地:何屋さんをやるか

1945~70 Ⅰの時代 現在の日本大企業のほとんどがこの時期に立地を決めている。

          たとえばキャノンは、カメラを捨て、事務機へと立地を変更した。
1960~85 Ⅱの時代 ライオンが問屋を使った物流だったのに対し、P&G参入をにらんだ
          花王の丸田芳郎社長は、「自社流通網を整備する」という、
          いわば前方垂直統合を行った。
1975~ Ⅲの時代 
1980~ Ⅳの時代  趣々の現場管理。TQC活動を各社が採用し始める等。

三品が問題視するのは1975以降の日本企業がⅠ・Ⅱに手を入れることなくⅢ・Ⅳのみをいじくりまわしていることだ。

ではなぜⅠ・Ⅱに手をいれないことが問題なのか。それは「Ⅰ・Ⅱには寿命があるからだ」というのが三品の説である。これを三品は1980年代から1980年代において〇〇で上位を占めた事業体の推移データによって、示している。

例えば、「1896:紡績(日露戦争)☞1911:製糖☞1923:造船(戦争)☞1944:重工・鉄(戦争)☞1950:鉄☞1960:日立・東芝(家電の登場)☞1970:鉄・重工(スーパータンカー時代)☞1980:自動車」と10年単位で変化が起こっている。

このように、ⅠやⅡに寿命があるという立場から見れば、まことしやかに言われる「企業寿命30年説」は、誤りである。企業ではなく、単一事業の寿命が30年と考えるべきだろう。例えば、GE・P&Gといった企業は19世紀に創立され、現在まで成長を続けている。そして、これら企業の中を見てみれば、ⅠおよびⅡの変更が絶えずなされてきているのだ。「企業の寿命じゃなく、事業の寿命だろ!」が三品説である。


その意味で「立地が機能しているかどうか」で、もうすべてが決まってしまうとも言える。Ⅲ・Ⅳの部分でいくら頑張ってもムリなんだ!と言い切る。

立地自体を創造した企業の利益上昇っぷりをデータで示す。さらに、もはや個別企業の経営ではなく、業界全体の立地そのものが腐ってしまった例として、百貨店業界を挙げる。

(百貨店業界は1960年代で終了。昔は百貨店に行くこと自体がエンタテイメントだった。そして「定価で売る」という行為が平然とまかり通っていた)

しかし、Ⅰ・Ⅱを決定することは難しい。そして我々は、戦後すぐの時代に、先駆者が築いたⅠ・Ⅱの上にただ乗っかって仕事をしてきた。その時代の、高校もでていない先駆者たちの「Ⅰ・Ⅱのやり方」を、我々は知らない。これが三品の問題意識だ。とりわけ、走っている会社の動きを止めずに、ⅠやⅡを取り替える作業は困難を極める。やり遂げた会社は、GEぐらいしか知らない。

彼が強調したのは、Ⅲ・Ⅳレベルで優秀なミドルを、早い段階でⅠ・Ⅱの段階に参加させ、鍛えること。しかしこれがかなわないが故に、大企業のミドルは憂鬱である。(だが、実際にやった大企業の例は存在する)。

さらに、戦略論の系譜においても日本の経営学者がⅢ・Ⅳレベルの戦略論を展開し「日本はここが強いんだ、ここで勝負するのだ!」と日本的経営を持ち上げて自己満足しまったこと、これも非常に問題であったと三品は考えている。例えば、「伊丹の「見えざる資産」:現場のノウハウ」「藤本:すりあわせ論」。藤本が車業界で勝ってきたことと、製品アーキテクチャと関係付けて語ってみせた功績を彼は認める。しかし、そこからⅢ・Ⅳこそが重要という結論を導くのは間違っている。Ⅲ・Ⅳで日本が勝てていたのは、その時代においてはⅠがしっかりしていたからなのだ。
「だから、今、下層のⅠ・Ⅱについて考えなければ意味が無い。今、日本企業にはそれがないのだから。俺はそこを考え抜いて、だれも考えていないこと考える経営学者として生きて行くと決めている」「ブレインストーミングから、生まれない。自分の頭で考える。データから、現場から、対話から導きだす」「アメリカで学んだのは、未知の分野に挑戦するための姿勢」「経営も同じで、未知の領域に道をつくることなのだ」」という内容の彼の言葉に、すごく熱いものを感じた。穏やかな語り口なのにむちゃくちゃ凄い。壇上にいる、オリジナルなものを生み出すことに人生をかけたひとりの男の迫力に、畏敬の念を抱かざるを得なかった。

:感想:
サラ地から作るほうが簡単なら、そうするべきだ。
Ⅰ・Ⅱを自分で決められるように、自分でするべきだ。

このように思いました。

以上です

2011-02-11

『スウェーデンパラドックス』という本の感想(すごい短い)

スウェーデンは、高福祉、高負担てことしか知らなかったが、それプラス、
①「クビになった人も、出産で一回リタイアした人も、働くための機会を均等にするためのいろんな手助けはしてやるよ、そのかわりそれは、「働かざるもの食うべからず」で、ちゃんと働かないと保証もないから」という、かなりまっとうな感じにきびしい国であることがわかった。
②業界と職業同じなら企業違っても給料はだいたい同じになるように決められている。すると、何が起きるか。その決められた水準以下に給料下げられないから、業績のわるい企業はつぶれてしまう。そのときに、補助金入れたりして、その会社をたすけない。これは、すげーな!たとえば、国内企業代表格の車のサーブも、ボルボも、つぶれるがままにした。どっちもつぶれて買収された。そしたら、職にあぶれてしまった人たちは新しい成長産業に移っていく。「でも、そんな急に無理だよ!」という話になるから、手厚いサポートがある。失業保険・職業訓練大学…etc.そして①にもどる。

人口1000万人ぐらいしかいないから、こういう統制取れるのかなーと思った。

「働かざるもの食うべからず」、まっとうにきびしい国、スウェーデン。覚えました。

以上です

2011-01-25

『これからの経営学』をよんだ

いま『これからの経営学』という本をよんでいるので、よみおえた論考のメモを随時追加します。

おもしろかった論考
「イノベーションの民主化」
ユーザーイノベーションはクライミング・スケート・自転車でかなりおきている!という当たり前のことにあらためて気づいた。もしビジネススクールなどで研究できる機会があったらこの分野でクライミングとかスケートボードとかウェブとか調べたいというなんとなくの目標ができた。

「超長期の企業戦略」
「複数企業間のすごい強い利益の同期性」に対して、10年かけて不可逆な変化をつくりだすのが経営戦略。ぐらいに思え。「PDCA回すと結果として戦略不全になる」は理解できるが、自分たちの事例に当てはめてみたときそれは逆に大きい企業と同じ構えになってしまい、意味が無い気がする。 じゃあ三品の言うとおり「壊れた事業にいつまでもPDCAを回している」のかていうとそうしたいのではない。長期の戦略は必要だがもっと組織のあり方を「中小企業化」する、 フラットであぶなっかしいまま保つ。方針を朝令暮改しまくることがずっと重要と思っている(不正確な考え:それは戦略より低次のレベルの話では?という疑問) それは結局三品が最後のほうで言ってる「高次の戦略を頻繁に変えることは、ふつうのことだ」というのと同じことなのだが。と言いたい。

メモ
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小川進:イノベーションの民主化 かなりおもしろい「イノベーションの民主化」とはリードユーザー自らが製品イノベーションを起こすこと。 
(スノーボード・スケートボード・クライミングギア・自転車…あるな!) 
スポーツでは主要な製品の改良のうち58%がユーザーイノベーション あとはCADも。
●大多数のユーザがやがて直面する不満に、かなり先行して直面している少数のユーザ:リードユーザー●リードユーザーのニーズ解決はかなり大きな利益もたらすこと多い (メーカが使ってる人のニーズを特定できず、製品に翻訳することができないとき、ユーザーがそれなら俺達がやるよ…というパターン多い)  
これをメーカができたら強い
●ある特定の分野に強い関心持つ人はだいたい、ソーシャルグラフ使ってリードユーザにたどり着いている (実感アリ)●リードユーザーはひとりでない可能性もある。ユーザーの集合知を製品開発に活かすため、いろんな取り組みを企業はしている。 これを群衆調達(CROUDSOURCING)と呼ぶ ここで、初めて製品開発におけるリサーチパネルの位置づけをちゃんと理解した!(収穫)
●技術的には無知でも、技術者がそうていしてない使用上の問題点に直面していることがある。てか多い。(実感アリ)
●ユーザーからのアイデアが技術者から見たら小さくても、それがじゅうようでないとは言えない。 
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三品和広:超長期の企業戦略 かなりおもしろい
●同業でならべてみると、利益の上下動はかなり同期している。4割の企業は10年間の平均利益が次の10年間に半減することもなく、倍増することもなかった。1/4から4倍の領域には、半分近くが収まってしまう。このような非常に強い同期性にたいして、それを最低でも10年かけて不可逆な変化をつくりだすのが「経営戦略」と定義する。
●戦略の次元:立地☞構え☞戦術☞管理
●利益に投影して初めて戦略となる
●高次の戦略を頻繁に変えることは、ふつうのことだ。むしろその画策こそが戦略だ
(ノキアは最初製紙会社、そのあとゴム長靴の製造。いま電話)。

おもしろくない論考
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藤本たかし
●国と相性のよい産業は競争力をもつ…???
それで日本はチームワークがいいからすりあわせ製造業的な結論に違和感をもった。
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ふつうの論考
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ラテラル・快楽ベネフィット(積極的→よろこび)・サブカテゴリをつくる買い手の現状維持バイアスと売り手の過大評価バイアス→よっぽどじゃないとヒットしない
ーーーーーーー

適宜追加する

2011-01-10

ライムスター宇多丸のpodcastの参考資料をまとめました

家で作業をおこなっていたので、ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル サタデーナイトLABOをずっと流していました。

食わず嫌いのための アメリカHIP HOP入門 feat. ZEEBRA!


宇多田ヒカル特集

の2つで解説されている曲をyoutubeで探し、tumblrにまとめました。
http://ppppeeee.tumblr.com/

BGM的にききながらささっとやっただけなのですが、かなり勉強になりました。有意義な時間でした。宇多田ヒカルもジブラも、さらに好きになりました。

tumblrはぼくの中では、はてブにかわる新たな勉強ノートです。身近な人のを見るとキャラがでてていいですね。

TumblrやNAVERまとめをつかって、これよりもっと秀逸なまとめ(佐々木俊尚いうところのキュレーション)をおこなっているひとがたくさんいることと思われ、できたらそんなやつをサクっと発見したいですが、現在のところ、Tumblrのダッシュボードからそれを行うのは難しい状況です。

(twitterも自分にとって良い情報をながしてくれる人をどうやって見つけるかは最初できないようなきがしたが、いろいろフォローしているうちになんとなく形成された。Tumblrもこういう仕方でやればできるのか。でも自分はTumblrをそういうふうに使用していない。twitterに誰かがまとめた情報が流れていて、そっからさらに取捨選択したり、調べたものを貼りつけるノート的使用。でも他人も興味があれば見やすく見れるノート)

でも「TumblrももっとRIGHT USER FOR ME を簡単に見つけだせるようにしないと、ほかのやつらにとってかわられてしまうよ」という記事がありました。
これは、ヤフー、グーグル、ツイッターと、私たちのウェブ上の情報とのむきあいかたがどう変遷していて、それを上記サービスがどのように支えてるか論じたもので面白かったです。

今後もやってこうとおもいます。

以上です

2011-01-04

年末に本を読んだのでメモを書きます





年末に何冊か本を読んだのですが、振り返らないと定着しないので、こちらに記します。

『ザ ゴール』エリヤフ・ゴールドラット
●年末は製造現場でも仕事したので、ボトルネックの能力で全体の能力が決まることが身をもってわかりました。しかしもっとSCM全体を考えたり、自分の思考プロセスに敷衍しないと、いまのところ意味はありません。勉強だ!

『芸術闘争論』村上隆
●講演も聞きに行ってみたのですが、「アートが好き」「良いものづくりをしたい」という根源的な欲求があり、それを貫くにはお金も、組織のマネジメントも必要というのはまったくもって当たり前のことで、それを忠実に努力され、やり抜いているかたです。
●ただアートの世界ではそういう視点で物事を考えたかたが今まで日本にはほとんどおらず、彼が文字通りの先駆者なので、つねにいかりくるいながら孤軍奮闘せざるをえないのだと思います。
●企業の経営者、また戦略スタッフなんかは彼の言っていることがすんなり理解できると思います。
●教育について、大学受験教育の突貫工事で基礎を作らせる力はけっこうすごい、ただそのあと大学では「自由にやっていい」っていうことになっており、それが一気に質を低める元凶になってるというのが、そのとおりと思います。ま自分次第ですが。
●「ルールを学ぶことで初めて得られる自由」について言及していますが、「ろくでなしブルース」「天明屋尚」など、私がすきなやつもこれだというのは昔から思っていました。


『今生きているという冒険』
●世界中を冒険している彼が、「こんな冒険をしました」「こんなことを感じました」をとても平易に、人生の価値とかをことさらに強調することなく語っています。ぼくの中では「石山さん」というカテゴリに入る本です。

『日本の路地を旅する』
●現在、京都にいますので、歴史を勉強したくて読みました。
●「どんな境遇に生まれても、そこからどう人生を選んでいくかはその当人次第なのだ」「生まれた境遇と、悲惨な人生は本当に無関係なのか」。自分のルーツを訪ねるたびこの二つの間でゆれる筆者が、「どこかで角を曲がり間違えてしまった自分の分身としての兄」に会いにゆくラストは淡々と、しかし本当に強烈でした。


以上です