武者小路千家家元の千宋屋の『茶 利休と今をつなぐ』
て本を読みました。現代美術も詳しい氏ですが平易な語り口でお茶とは?を解説してくれており、非常に面白かったです。
一番ぐっときた点:
氏の黄金の茶室はいいと思うという考え; 利休いうところの詫びとは、仏の御心に対して身分相応のやりかたで、いまできる全力の仕方で敬意を表するが、それをどんなに極めてもどうしても物理的に限りあることへの「すいません」という気持ちの事であるらしい。てことは貧乏ならびんぼうなりの、金持ちならかねもちなりの敬意の表しかたと、詫びがある。
じっさい、質素スタイルで一時代を築いた利久の孫の宗旦は、ある大名がわざわざ質素な食事を用いた茶会を催したとき、必要以上にやつして見せれば詫びだとかんがえるのは、分かってないです。と批判したという。
それで黄金の茶室に立ち返ると、これは天下人の秀吉がスーパー全力をつくした、彼なりの詫びの表現だと分かる。
さらに古代に目を向ければ、仏の力に光をあたえるため、経典を金文字で書いたり、仏像を金にしたり、その周囲を様々な装飾するのは普通にやられてきたことです。それは、単に権力誇示ではなく、仏の御心のすごさを具象化するための行為であり、信仰の深さを示すための行為であったわけで、そう考えると、黄金の茶室=俗悪とは全く言えないのです。
禅的なやつと琳派的なきらびやかなやつ、どちらも日本にはあるわけで…。とか、ぜんぶ金の部屋ってそのハードコアなミニマル感が逆にすごくねー?という思いから、黄金の茶室が好きな私にとってはかなりぐっときました。
おすすめの本です。
以下はメモです。
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お茶の歴史
渡来人とか、空海の時代に始めてお茶とふれあった。
栄西が佐賀にお茶を伝え、さらに宇治とか醍醐とかにお茶栽培する場所ができた(寺は密教系に伝えられた)
鎌倉時代には、闘茶というテイスティングと賭博を一緒にしたものが武士の間でたいへん流行した。
その頃中国はモンゴル人に支配され、漢族の僧が日本に避難してきた。そのせいで彼らのお茶飲む習慣も一緒に伝来した。
それは、彼らのお宝(唐物)で部屋を飾ってお茶飲むスタイル。それがかっこいいとされた。
室町になるとそのスタイに歴代将軍が金突っ込んだ。お宝を飾る為に書院造り(床の間、違い棚とか)が生まれた。
応仁の乱で京都は灰燼に帰し、そっからうまれた厭世観や、あるもんでやるしかないという流れで、国産の道具、狭い茶室ていうミニマリズム的流れが生まれてきた。
それの萌芽が、足利義政のどうじんさい。
京都が荒れてた頃、堺が力つけて茶も担った。その中に商人かつ僧籍もつ千利休もいた。ここで初めてお茶と禅宗が結びつく。
プライベートなビジネス社交クラブとしてお茶を使う方向性。
その後織田信長が上洛し、お茶をやる権利を許可制にする。成り上がりで文化的なものが薄い武士が、文化的な部分をとりこもうとした。武士はすべからくお茶をやるものであり、その許可をくだし統括するのは俺、信長。
かつ鉄砲の供給源である堺とのパイプもつなげたかった。
茶事を行う茶頭として利休など
三人を迎えた。利久の美的価値観が、国家によって担保されている状態。器が国ひとつと同じ価値をもつ。
唐物ではなく、漁師の魚いれるびくを道具にしてしまうという価値の転換(デュシャン的な)。
唐物を見ながらお茶をのむ会、ていどのものを、ミニマルかつディープコミュニケーションの手段としてのお茶、お茶を変化させた。そのため茶道具、飾られるものも、抽象性が高くなった。
その後、利休が切腹させられたのち再興を許されたとき、千家は自らを3つ(表、裏、武者小路)にわけた。これはリスクヘッジのため。しかし将来的なブランド価値の低下も防ぐため、3つより増やすことも同時に禁止した。
明治期になると、大名という数寄者パトロンいなくなった。生き残りのため、裏千家はお茶教室体系を全国に張り巡らす方針転換。お茶が女性が身につけるべき作法であるというマスマーケティングに成功。
一方、三井、野村、原三渓など明治の大富豪があらたな数寄者としてお茶をバックアップ。
茶碗を回すのは、相手が見せてくれた茶碗のベスポジに口を当てるのを避けるためと言われるがそれは近代以降にできた話しで、それ以前に実利的な理由があった(角度的にすすいだお湯を捨てるだけで飲み口が現れ、水か少なくてすむ)。つまり、もてなされがわの心遣い。
お茶の作法の動きを合理性だけでは説明できないがしかし、型には意味がある。ジャズのスタンダードに深い意味があるのとおなじで。文化的(従順と逸脱に意味がうまれる)な意味で、また型に従う事によって精神的に深くなる意味もある。