2014-10-13

『キェルケゴールの信仰と哲学』鈴木祐丞 著 を読んだ感想


  • 鈴木祐丞 著 キェルケゴールの信仰と哲学』を読みました。取り急ぎ感想を書きます。
  • キェルケゴールは、若い時から直接性の中に生きることができなかった。
  • それは、父の宗教教育のせいで。
  • 永遠的なもの(ガチの精神の充実)(この場合宗教的なものを指すと思われる)を求めるよう、教育されて生きてきた
  • いろいろあって(『死に至る病』をかいて、自己意識を段階的に深めるなかで)、最終的な自己意識の高まり状態に行ってはじめて、「反省(永遠的なものへの開眼)の後の直接性」というのが最も重要な状態だと、思想の到達点があった
  • でも、読んでいる私にとって一番重要なのは、それが、キェルケゴール自身にとって実現不可能な状態だった、と彼自身が認識してしまったこと
  • それでも、生きていくには? たぶん、すごい葛藤あったはず。
  • さらに思索をすすめていくと、「キリストとの同時性」というのが本当の高みだというてんに気づいてくる
  • しかしここでも、そこに普通の人間であるキェルケゴール自身が至ることはできない、と気づいてしまう
  • それでも、生きていくには、?理想状態と、自分の状態が全然かけ離れているということに、深く考えれば考えるほど、ハマっていくような状態で。
  • →「神の意思について直接的に知ることができず、その意味で「弁証法的な宙吊り」状態に置かれている普通の人間にとって、神意に充実な生つまり信仰とは、…それでも絶望することなく、おそれおののいて、止むことなく神意を尋ね求めようとするべき」「そうした人間の生それ自体が信仰を表現するのである。この信仰のあり方が「自己への無限の関心」」 
  • →こういう考えに至った時、キェルケゴールの精神が解放されたと思われます。
  • →「神意について、手探りしながら、「反省のあとの直接性」という信仰の境地へ到達することに青年時代から憧れ続け、その果てに1984年の宗教的体験を通じてそうした信仰の自身にとっての不可能性を認識する羽目となった(しかも「閉じこもり」からも開放されないという認識にも至る)ことに象徴される彼のこれまでの生徒は、まさに、「自己への無限の関心」の体現」だった。「自分がこれまで神と共に生きてきたことを知り、自分がここに自分自身となったと言うのは、かれのこれまでの生が実は信仰を表現していたという意味での、これまでの生についての全面的な肯定を意味するであろう。
  • →自分の日記で、「私はなにも不足していない」「私は私の不幸において祝福された」「私の生の全てにおいて憂愁が存している。しかし、それもまた、言葉で言い表せないほどの救済なのである」…と言えるぐらい、自分の精神が解放されている。
  • 自分は宗教を信じていないけど、理想と現実の間で、最後、ありのままの自分の姿を肯定できたキェルケゴールに、いいね!と言いたいし、人生の殆どの時間をそれにかけなければいけなかった彼自身の特異な人生(たった42年)に、おつかれ。と言いたいし、そういう特別な事例だからこそ、今日でも、特定の宗教に関係なくとも、「理想と現実」に関して疑問などを持った際に、ケーススタディとしてふかく参照される価値をもちつづけているのだろうなと思いました。
以上です