ふだん「組織変え」的仕事をしており、現象をどう見たらいいのかという点で悩むことが多いです。
問題のありかを洗い出すためにインタビューという方法を用いることもありますが、その「非効率的さ」にまじで疲れることもしばしばです。これは、もっと効率的な定量的調査(行動科学的な?)で置き換えることができるんじゃないかとか、この定性的成果物をあつめたからどうしたというのか?といった疑問をもちながら行動していることもあります。
佐藤郁哉『フィールドワーク』を読み、エスノグラフィーという態度(私の中で乱暴に定量的=サーベイ、定性的=エスノグラフィーと整理)が、じつはかなりそういった疑問に対するヒントになっているということを知りました。
とりあえず、生きている人間と文化の姿をリアルに再現するにあたって、非効率であることはエスノグラフィー的には基本なんであきらめろ、というのは深く理解できました。これからは意味を理解して行動できそうです。
「仮説」に対する態度がかなり深かったです。仮説と聞くと、私はつい①実証主義(ポパー)の矛盾点、論理実証主義の矛盾点とか、つい科学哲学の出口なき議論に入っていこうとしたり、②仮説検証的アプローチとエスノグラフィー的アプローチというのをなんとなく、対比的に見ており、その現場に仮説をもたない裸の自分で入っていく、そして得たものを、ありのままに書き残していくのがエスノグラフィーであり、その表現はいきおい文学的とならざるを得ず、なんていうか、今福龍太みたいな「飛んだ」文章になるのだ…と考えたりしてしまいます。そのため、エンジニア出身の方々がさっくり「仮説!検証!」と言っているのを耳にすると、本当にそうなのか…と。
しかし、「仮説」というものを佐藤が言うように“経験的な事象を科学的に説明もしくは予測するために定式化された未検証の命題”というのよりも柔らかく、“既にある程度分かっていることを土台(根拠)にして、まだよくわかっていないことについて実際に調べてみて明らかにするための見通し”と考えてみたら、まあ普段から、そいうことはしているのであり、佐藤氏がフィールドワークにもじっさいは仮説検証的アプローチが含まれていると述べるのは矛盾ではないと納得しました。一般的にサーベイ的なものですら「明確に打ち立てた仮説を数回の実験ではっきり白黒つけて検証する」というプロセスがふまれてるとは限らないし、複雑な事象が絡んでいるフィールドにおいてはなお、まえに読んだマーケティングの神話の感想のごとく、「何回もやれ」という姿勢が大切になるというのは、すごく納得です。
観察者の技量が重要というのも響きました。インタビューして、聞いたことをありのままに書いてい(るように見せ)ながら、それが調査の見通しに対して重みを持った発言となるのかは、フィールドワーカー自身の「物語り」がきちんと成功しているかにかかっているとのこと。その物語りでは、きっと調査対象のある発言・行為が埋めこまれている文脈全体が示され、そのもとにその発言の意味を論じられているイメージだろう。
そういえば大学の時、心理学の学生がよく概論の授業の後に来て、全員対象のアンケートを配っていました。文化人類学のともだちは、東北の牛飼いのところに住みこんで調査、いまはタンザニアの遊牧民のところにいます。学生の時、なんとなく触れ合っていたこうした学問が、今になって大いに意味あるというか、なんか全員でどうやったらいいのかねーと言ってとりあえずワンショット・サーベイやってみたけどで結局あんま役に立たないみたいなモヤモヤを繰り返さないためにも、こういう視座を共有して進めていくことが大切だと他の人を説得できそうな気になれたのは収穫です。
じつは自分たちが手前味噌でやってきた手法のなかにも光る物がある(たとえばフィールドノーツ)ということが佐藤氏の説明で理解できたので、これも良かったです。
『組織と経営について知るための実践フィールドワーク入門 』というような本も出されているとのことで、きっと企業変革コンサルタント的な仕事をしている人は上で言ってるようなことに既に気づいており、したがってこんな本が欲されるのでしょうね。ぼくはでも、『暴走族のエスノグラフィー』が読みたいです。調査対象は京都の元ヤンで、これは読むしかないです。
なにより、未知の現象に挑んでいくwktk感を喚起してくれるという意味で、「沢木耕太郎」「石川直樹」「今福龍太」…そこに「佐藤郁哉」も加わったのが、うれしいです。
以上です