2013-01-15

地中美術館の感想_2013-01-13

直島を久しぶりに再訪し、ひとり地中美術館に行ったので考えをまとめます
  • 地中美術館は、常設で3人の作家の作品が置いてあり、展示替えはない
  • そのため、なぜこの美術館にこの作品が置いてあるのかということには、深い意図がある
  • さらに、それぞれの作品も、非常にコンセプチュアルだ
  • 一見、「印象派の有名画家の絵」という一言で片付けられる可能性のあるモネの絵も展示されている
  • がしかし、この地中美術館においては、最晩年のモネの絵は、「白内障という要因によって知覚が歪められた作家が、自分の知覚する現象をキャンバスに落としたきわめて具象な絵画」という位置づけで展示されていると考えられる
  • その時に想起されるのは、いわゆる「じゃあ知覚の先にあるモノそれ自体」なんてあるのか、そんなものはなく、知覚が全てなのか、といったカントの時からある哲学的問題であったり
  • 他の展示であるところのジェームズ・タレルの作品で示されているウィトゲンシュタイン的アスペクトの実験(人間の知覚にはアスペクトってものがあり、詳細は省くがそれは意識的に見たり見なかったりできるもの)と、そもそも病気という外的要因によって知覚が歪められてしまった状態で絵画を作成している状態との鮮烈な対比であったりする
  • もうひとつの作品、ウォルターデマリアの作品は、大きな石の球が巨大な階段状の部屋に置いてあるものだが、作家によると、「その作品の意味はない」という
  • しかしながら、私はその部屋に入るとき、いつも、なにか神々しものを感じてしまう。西行が言うところの「なにごとのおわしますかは知らねども…」的な気持ちになるのだ
  • それでもしかし、作家によると、意味は特にありません、という。では、なぜ意味がないものに、こう人間てのは、私てのは、何か意味をかんじとってしまうのだろう。そういう人間の心の作用って何なんだろう。
  • そんなことに思いを馳せざるを得ない作品があるのがこの美術館です
  • 今回、さらにそれを、閉館間際の暗い空間で、ひとりきりで、本当に耳が痛くなるほどの強烈な静寂さの中で鑑賞できる瞬間がありました
  • そのとき、心が踊っているような、静かに沈んでいるような、なんとも言えない感動がありました。深く感じ入りました。
  • 会田誠は、大学の時ある意味悟りを得た経験を経て(あの曼荼羅の作品)、だからこそ人生の本質的な部分で勝負するのではない方向でアートをやろうと心に決めた、と、この前言っておられました。そして、そんな会田誠の作品は、大好き。
  • じゃあ、逆に、本質的なところで勝負してる作品はどこにあるか。それは、地中美術館。それは自分が聞かれたら間違いなくそう答えます。


以上です

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