世田谷村日記2000〜2008 読了
そりゃあ疲れた でも中途半端はだめだとおもって全部よんだ 2000からの思考が世田美展覧会と閉館後連続レクチャーに収斂してく怒濤の流れを追体験したかったんだね 磯崎新の存在がつねに近くにある 先輩に教わった通りだ でも磯崎に手を出すのはとりあえずやめようキリがないから
建築を専門にしてるわけじゃないから 60歳ぐらいの方がこうした言葉を吐いているという事実が自分にとってはいちばん大切だ 凄く学ぶところがある 単に消費しておわりってことにならないようにしたい 一種の清涼剤みたい感じで消費してしまうのだけはやめよう 気になるところコピペして抜き出した 貧乏性なのだね しばらくしたら他のコラムを読みはじめよう
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農家のハウス内部づくり2回 手伝えたのがよかったと思う イチゴ定植までもう少し
がんばってくれい
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サイモン・シン『フェルマーの最終定理』
一気に読んだ 専門外のひとに面白く読ませる書き手は凄いなあ 「物理の真理は変わってしまうけど 数学の定理を証明したらそれは永遠に残る」みたいな文が気になった てことはつまり大多数の数学者は素朴なプラトニズムを信じているのかしら(人間がいなくても「数学的真理」ってものがどこかにあり 数学者はそれを発見するみたいな) そんな事もないだろうね
ウィトゲンシュタインずっとよんでいると 数学も「1の次は2 2の次は3 3の次は4…」と人間がそーゆーふうに数えてるという事実から生み出されたもの 人間の産物なんだから もし人間が「1の次は3 3の次は10…」とか数えるような生物だったらそっから生み出される数学も違ってしまう だから別にイデア的な数学的真理があるとはいえないんじゃないのかな みたいに思えてくる
したがって数学の真理も それがどんな複雑なものでも 「数える」「ひとつにまとめる」みたいな単純な人間がふつーにやってることに結びついてるはずだ ということになるだろうねウィトゲンシュタインのいってることを引き受ければ またそうでなければ意味ないと
量子力学の理論はよくしらないが そういう我々がふだんやってる単純な行いに着地することはできてないような気がする 量子力学が根本的なところで理解不能なのは まだ途中段階だからってわけじゃなくて それがはじめから根本的に理解できない構築物として設計されてしまったからではないんだろーか つまりウィトゲンシュタインがいう人間の実践のありさまからかけ離れたところでつくられた人工物であるから よくないんじゃないか
など かってな想像がふくらんだ
つまり 面白い本だったのですね
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学園祭のバンド紹介文 「巡礼」を担当したけど 後輩も先輩もみんな面白いな まけた気がするくそー
男子コンもあるし楽しみだ〜
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…と バイトです
いろいろ進行中 また!
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